0系の思い出〜西へ、西へ〜

私の母親の実家が九州にあるので、行き帰りにはよく新幹線を使いました。
0系時代はともかく、いまは「のぞみ」で博多まで3時間30分弱。
セントレアへのアクセス時間などを考慮すると、実質的には私の住んでる所からでは飛行機と大差ありません。


時間に余裕があるときはブルートレインも使いました。
廃止が噂されている「はやぶさ」。
博多駅での乗り換え不要で目的地まで行けるので、それなりに便利だったんですが、やはり時代の流れにはかなわないようで。


ですが今日は、「時間に余裕がない」時にブルートレインを使った時の思い出を。ここに、0系も絡んできます。


数年前、母方の祖母が他界しました。
90歳を超えても元気だった祖母ですが、ある時足腰を痛めて寝込んでしまう日が続いて。
一旦そうなってしまうと、衰えは早いんですね。
母も心配して、急遽帰郷の手配を進めていたんですが、間に合いませんでした。


両親はお通夜に間に合うよう先に九州へ向かったんですが、
私はどうしても仕事の都合が付かず、仕事が終わってから出発し、葬儀の日の朝現地入りする行程を組まざるを得ませんでした。
で、ばらばらと時刻表をめくっていくと、ある列車にたどり着きました。寝台特急「なは」。
今年の春になくなってしまいましたが、当時は新大阪と西鹿児島(現・鹿児島中央)を結んでいた列車です。
「のぞみ」で岡山まで追いかけて「なは」に乗り継げば、退社後比較的余裕を持って移動が開始でき、現地に早朝入りできます。
幸い空席があったので、「のぞみ」「なは」のチケットをゲット。
早朝現地着を目指し出発。定刻に「のぞみ」は岡山着。やはり定刻に「なは」も岡山駅へ。
これで全て予定通り…のはずでした。


深夜(未明?)の山陽本線
軽い衝撃で目を覚まし、外を覗くと、どこかの駅に停車中。
5分…10分…20分…動かない。どうしたんだろう。


なにやら車掌さんの様子があわただしい。
ちょうど通りがかった車掌さんに事情を聴くと、なんでも赤間駅(鹿児島本線)の近くで事故が起き、復旧に相当な時間がかかるため、
九州行きの寝台特急は最寄りの新幹線接続駅で抑止。明朝の新幹線で博多まで振り替え輸送、とのことでした。
どうもこの駅は厚狭駅のようです。
まぁそうなってしまったことは仕方がありません。
ちょっと予定が狂いますが、葬儀にはなんとか間に合うでしょう。そう思って再び寝ることにしました。
…しかし停まったままの寝台車ってなぜか眠れませんね(笑)。どうも調子が狂ってしまいます。


うつらうつらしていたら、車内の照明がぱっと明るくなり、車内放送。ちょうど朝6時ちょっと前くらいだったでしょうか。
「これこれこういう状況ですので、御手数ですが新幹線へ…」と。
列車を降り、新幹線の乗り換え改札前で振替証…なんだか手書きのメモをコピーしたような簡単なものでしたが…を渡され、新幹線ホームへ。
朝の厚狭駅、などとくだらないことを考えていると、朝もやの中ヘッドライトを輝かせ近づいてくる列車。
0系の「こだま」でした。
既に東海道新幹線からは姿を消してしまっていた0系。またこうして乗ることになるとは思ってもみませんでした。
車内へはいると、座席などは交換されていましたが、天井とか窓枠とか走行音とか、いろんなところに往年の面影を残していて、懐かしく感じました。


そういえば小腹が空いたなぁ、車内販売でも来ないかな、と思ってたんですが、残念ながら乗務していなかったようです。
淡々と早朝の山陽路を走り、各駅で乗客を乗せ、淡々と博多へ到着。
博多で在来線の特急に乗り継がなければ行けなかったし、まだ0系がいつ無くなる、なんてことを意識する時期でもなかったので、
写真など撮ることもなく、あわただしく乗り換え通路へ。
これが、私にとっての最後の0系でした。


結局、やや遅れながら無事に現地着。葬儀にももちろん間に合いました。


この時感じさせてくれたのが「バイパスルート」としての新幹線。
今はどちらかというと新幹線の方がメインルートになるんでしょうが、状況次第で在来線と新幹線、相互が補完し合うこともあります。
もし新幹線がなかったら、葬儀には間に合わなかったかも知れません。


さて、あすはいよいよ「0系さよなら運転」最終日。
本当のラストランになります。
最後の最後まで、無事に任務を全うしてくれることを願っています。
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